人の心の暖かみのあるものに関わって人生を過ごしたい。色彩や形で美を表現する・・・。表現する手段は違っても、音であれ文章であれ、創造する冒険家とそれを観る私は五感で感じて、ひとつの作品と成る・・・。
そんな人々のふれ合いの中で、生きてゆきたい。平面から、三次元を、四次元を感じていたい。作品に魂を吹き込み全人格が表された作品と、そこに共感する魂を持ち合わせた人との交流の中に居たい。
右も左もわからない嘴の黄色い私が「生意気な小娘が(自分ではそのように思った事は一度たりともないけれど)」と人に言われながら、大阪駅前第4ビルに小さな画廊を開いてかれこれ30年が経とうとしています。ありがたい事に、見栄とか形式だとか辺幅を重視するわけでなく、五感六感の優れた沢山の善い人達に巡り逢いながら今日があるという現実に、この上なく感謝しております。
ご存知の様に、物の創り手はいくら技術に長けたとしても、それが観る側に感銘を与えるという具合にはいきません。創る人の年輪や精神性、ものを捉える素直な心等、いくつかの総合力によってひとつの作品を創り上げ、また観る側の過去を投影出来たり、琴線に触れるという事で初めてひとつのものが出来上がると思います。創り手側は、現実を嘘に掏り替えるということでマジシャン的要素も必要な場合もありますが・・・。
幼い頃には大人は皆完璧だと信じ込んでいましたが、いざ自分が成人して増えるのは知識と年齢だけ。完成はない事に気づきました。それよりもカサブタが増え、五感が鈍る気さえするのです。『道は人の心なり 心とは行いなり』と申しますが、その人の仕事を観察すると自ずから心は透けて見通せるものです。それがアーティストであっても、アートディーラーであろうが、人格、品格をも垣間見る事が出来ます。
とかく優れた仕事をする人は、優れた魂を持つ人の確率が高い様に思います。そういう人と関わって生きると、自分が気構える事なく心が燥いでウキウキした時間が流れてゆくものです。
また反対に一時的に栄華を極めたとしても、一流の精神を持ち合わせていない為に衰が足音をしのばせて近寄って来る場合もあります。『天網恢々粗にして漏らさず』とはよく言ったものだと感心致します。
したがって小手先の創造物はいつか厭きられてゆくし、邪なる精神で仕事を積み重ねても砂上の楼閣である事が多いのです。いつも私自身の事も含めて客観的に、半分興味津々で頬づえをつきながら眺め続けています。
私がこの仕事で学んだ事は、あたり前の事ですが、その種によりて、その花は咲き、その実は成る。心の有り様、人生の生きざまでその大半の結果が生まれるという事です。
私はいつまで経っても未完成。いずれにしても違った面からものを観る創り手と鑑賞側。そんな中で、難しい事は天袋に仕舞い込んで出来るだけ単純に生き、自分の両の手と足元を見つめながら、できるだけ粋に生きる。
やがて訪れる人生の終焉には、未熟なコレクターで出来るだけ完成度の高いアートディーラーでありたいと願っています。