貝紫染の分野で日本の第一人者といわれる寺田貴子(現長崎活水女子大学教授)さんは佐賀県の吉野ケ里遺跡から出土した弥生時代の絹織物片から貝紫が発見されたのを機会に貝紫染の復元につとめられ、有明海でとれるアクキガイの貝紫で染色をされている。寺田さんが染色し織った島原木綿の縞木綿や日本刺繍の鳳凰は見事である。 更に、寺田さんの重要な業績は貝紫生成条件に種々の工夫を加え、色素の精製度や染色条件により非常に多種類の色を生ずることを確立されたことにある。ここで面白い現象の一つは、貝紫発色条件により藍染に使われるインジゴが生成することである。藍染は植物染料であって動物染料である貝紫から出来るのは誠に興味深い。
紀元前十世紀に貝紫産業を独占し、技術を秘法としていたため東ローマ帝国の滅亡とともに貝紫産業は終焉した。しかし、貝紫が地中海から中近東、インドを経て中国に入ってきて、紀元前三世紀前後に高位の人々の間で貝紫染の衣が着られ始めた。その結果、それまでの古代中国で紫色は朱色と青色の中間色として嫌われていたのが逆に色の最高位になった。日本でも聖徳太子(6世紀)が冠位十二階級を制定し、最高冠位に紫色を用いたといわれている。和洋を問わず紫色が最高位の色といわれる由縁は貝紫にある。その現れとして、中国では紫禁城(現在故宮博物館)があり、 日本でも御所の紫宸殿が有名である。
貝紫から話はそれるが、 中国や日本では貝紫の代用として、 紫草(ムラサキ)の根(紫根=ムラサキ)を用いた。そして日本でも紫色は一般人の使用を禁じていた。また、紫色は藍染の藍に蘇芳(スオウ)〔蘇芳 : インド、 マレーシア産の植物で、 煎汁は黄褐色、明礬媒染で赤緋、灰汁で紫赤、 鉄媒染で紫色になる。色素名はブラジレイン。〕をかけ合わせると出るが、これはにせ紫といわれている。
動物性色素として特異な存在であった貝紫は、 科学構造も決定されていて合成も可能となり容易に得られるようになった。ローマ時代から現代に至るまで、覇権をめぐる抗争に貝紫はその貴重な存在故に関与してきたが、昨今は文化遺産の興味の対象としてようやく安住の場所を得たようである。
能登半島で採取される貝紫を生ずる貝 (左よりアカニシ、レイシ、イボニシ)