画商の目

 私、四国高松市南部に生まれ、美術品には何ら関係なく育ったものの、美術自体は好きでした。’60年代の始め頃だったと思いますが、京都国立近代美術館のピカソ展を見に行ったり、高校時代は『コマーシャル・アート』を学んだりしました。
 そんな私を見てか、義兄に、美術商に就職してみないかと言われて、当時、大阪美術倶楽部の社長でもあった米田商店に職が決まりました。店は心斎橋にあり、入社間もなく新築の画廊が出来上がりました。
 とにかく忙しい美術商でした。朝から晩遅くまで、休むことなく働きました。当時は、地方の美術市場に出席することも大切な仕事でした。5人程度居た店のスタッフの誰かがいつも出張中でした。もちろん私も、大きな風呂敷を3・4個持って、金沢・富山から九州長崎・熊本まで出かけたものです。忙しい中にも少なからず楽しい事がありました。
 この頃は、都会で仕入れて地方に持って行ってもけっこうよく売れたものです。帰る頃には小さい荷物が一個ぐらいになるという事は、あたり前の日々でした。
 業界では『ハタ師』と呼ばれて、市場と市場を行き来し、そこでの売買で利益を上げる人達も大勢いました。自分自身も、その1人だったかも知れません。商売に出かける地方の好みそうな道具や、その地方出身者の軸や額装物や茶道具を持ってお伺いすれば、本当に何でもよく売れたものです。
 欲と2人連れということなのか、美術品についてもよく勉強しました。私が諸先輩方に質問に行くと、丁寧に心良く教えてくださいました。個人的に調べたい時でも、材料は店の中に豊富にあり、勉強するには事欠くことはありませんでした。それに加え、主たる市場にしている大阪美術倶楽部は、 足の踏み場もない程に道具類・美術品・調度品等々が、所狭しと出展されていて、内見会で見て回るだけでも大変なことです。
 好きな品物を見つけると、やはり「ドキドキ」と胸が高鳴ります。今もその感動は変わりません。美術品において、絵画にしろ、工芸品にしろ、達人の作った作品には常に心を豊かにしてもらえます。又、大きな安心感の中に自分を置くことが出来ます。そのような作品が過去から現在に至るまで大切に伝えられて来たのだから、我々の手で未来へ伝えていくことが、私達の仕事だと思います。
 作品をどの様に扱っていいものかわからない時は、どうぞ遠慮なく、いつでも聞いてください。受け継ぐものは、次の者に渡すまでの監理・責任も一緒に受け継いだものと思っております。
 当社100余年の歴史の中、私で四代目となります。今も毎日が勉強の日々と思っております。新しい発見に何かワクワクする日々が毎日続いております。

米田春香堂
株式会社 米田商店
代表取締役 米田 良三